シンガポールの雨(3)
前にも触れたとおり、シンガポールは中国系の人間が多いとはいえ、その他マレー系、インド系などもいる他民族国家である。このため、町では中国語を話す人が多いものの、共通語は英語になっているようで、地下鉄の駅名やアナウンスなども英語で行われていたし、書店には英語の本が並んでいた。そういえば、僕がアメリカに住んでいた当時、東欧に旅行ツアーに出かけたが、そのときシンガポール人母娘を一緒だったが、彼女たちは英語のほかにも中国語の北京語、福建語など、数か国語も日常的に話すと言っていた。このときの娘の方の若い彼女はシンガポール大学で日本について学んでいたということで、いろいろと話をしたのだが、僕が日本語のほかには英語しか話せないと分かると、さも当然といった顔でフランス語か何かやるべきだ、と言われたが、これもこのような環境の中にあるからだったのだろう。
しかし、実際、世界を見てみると日本のように長い間に渡ってほぼ単一民族しか住んでいなかった国は珍しい部類に入るのだろう。例えば、言うまでもなくアメリカはつい200年くらい前に人工的に作られた多民族国家で、もちろん英語が国語であるが、"アメリカ人"にはさまざまな民族的背景を持った多様な人々がおり、それぞれの民族の言葉を話すのが普通だ。また、ヨーロッパは、互いに国境が陸続きで接している上、古くから国々の興亡があったこともあり、いくつかの言葉を話す人が多い。ラテンアメリカは、スペイン語が支配的だが、民族的には実に多様で、ブラジルなどは白人、黒人、混血などが日常的に隣り合って暮らしている。
近づいてみると、ドリアンのむっとした臭いが漂ってきて、果物を売っている商店があることが分かる。また、東南アジアによくある、店の前にテーブルをぱらぱらと置いた小汚いレストランも見えてきて、そこでは何人かの男がたむろして談笑に興じている。ここら辺りへ来ると、ドリアンの饐えたような臭いもあって、周囲の雰囲気は怪しげなものから妖しげなものへと変わっていた。
タクシーは高速道路のような広い通りに出ると、今や本格的に降り出した雨の中を遠く西の方に灯りが霞んで見える高層ビル街へ向かって走りだした。雨に煙るタクシーの窓からは、前方に信号の赤いランプがぼんやりと見えてきたが、それはつい今しがた去ったゲイラン地区の赤ランプを彷彿させた。それにしても、世界には知らないことがまだまだ数多くある。ソクラテスの"無知を知る"ではないが、様々なことを知ろうと思えば思うほど、いろいろなことをやろうと思えば思うほど、自らの無知、不甲斐なさを思い知ることになる。あるいは、"井の中の蛙"のままで終わる方が、結局は、幸せなことなのかもしれない。僕は、雨ににじんだ赤ランプが青に変わるのを見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。