写真と絵画主義






 先日、東京・渋谷の松涛美術館でやっている”石田喜一郎とシドニーカメラサークル”という写真展を見てきた。石田喜一郎という写真家はあまり知られていないし、僕自身も知らなかったのだが、戦前の1919年に当時の大倉商事の商社マンとしてシドニーに渡り、そこで日本人写真家の鍵山一郎と出会って写真の手ほどきを受けたそうだ。その後、シドニーの地で最も先鋭的だったというシドニーカメラサークルのメンバーとして迎えられ、大いに活躍した人らしい。

 石田の写真の特徴は、ブロムオイルプリントによる芸術的、絵画的な写真を制作したということである。ブロムオイルプリントとは、詳細はよく知らないが、ネガを直接印画紙に投影してプリントを得る通常のプリント法とは異なり、手をかけて間接的にプリントを得る方法でピグメント印画という分類の一つに入るそうだ。そのプリントは、絵画のようなシャープではないが深みのある画面となり、このような写真をよく絵画主義、ピクトリアリズムと呼んでいる。

 こうしたピクトリアリズムは大正、昭和初期の日本で流行したものらしいが、戦後は土門拳に代表されるいわゆるリアリズム写真にとって替わられていった。この時期の日本は、富国強兵を進め、いわゆる列強の仲間入りを果たしてきた時期であり、写真についても、欧米製品を中心とした写真機材が普及し始めた時期で、いわゆる大正教養主義が広がっていた時期である。こうした中で、”芸術”写真を目指す動きが流行のようになり、これら芸術写真がモデルとしたのが、絵画であったという時期でもあったらしい。

 ところで、現代の日本は、ある種の理想主義的な大正教養主義の時代とは全く異なり、より現実的で快楽的な刹那主義、拝金主義的傾向が広がっている時代である。そうした中で、ピクトリアリズム的な写真は、なぜか静かな流行を見せているように思える。それは、松涛美術館の写真展だけではなく、ロモのLC−Aなどで撮影したとてもシャープとはいえない写真を有り難がったり、デジタル処理をした絵画的画像を喜んでみるなどの種々の動きに感じられるように思える。これはいったいどういうことなのだろうか。

 平成14年7月31日付けの朝日新聞(夕刊)では、”絵画主義とリアリズムの相克と補完”と題して、同新聞編集委員の田中三蔵氏が、松涛美術館の石田の写真展を評している。そこでは、”一時は敗れ、消えたかに見えた写真における「絵画主義」が今、現代美術のなかで、形を変えて再生している。写真の「絵画主義」と「リアリズム」は、今後もあざなえる縄のごとくからみあい、相克と補完を続けるだろう。”としている。これによれば、絵画主義は、あたかも景気循環におけるコンドラチェフの波のように、あるいは振り子のようにある周期をとって自律的にゆり戻ってくるものであると考えているように思える。

 しかし、果たして今のピクトリアリズムの”復活”は、こうした自律的なゆり戻しなのだろうか。

 むしろ、近年の我が国の経済停滞、それによるリストラの時代、先行き不透明で将来に明るい希望が持てない時代という時代背景があるのではないかと思える。このような時代の中で、多くの人々は将来に自信が持てず、何かしらの不満を持っている。しかし、彼らはその不満の捌け口を現実世界に見出すことが困難でもある。

 さらに、デジタル画像の普及ということもあるかもしれない。絵画的な写真を制作するのは、石田の時代にはそれなりの手間もかかり、そう簡単なことではなかった。しかし、デジカメが普及しだした今、特別の技術も修養もない人であっても、容易に”それらしい”画像を作ることができる。

 これら閉塞感漂う時代の中でデジカメの普及という”ツール”のお膳立てができたことで、ピクトリアリズムが再び長い眠りから覚めてきているのではないだろうか。

 これは最近の”廃墟”ブームによっても裏付けられるかもしれない。平成14年8月21日付け毎日新聞(夕刊)では、”ヘンなブーム なぜ今「廃墟」”と題して、小林伸一郎氏の”廃墟遊戯”などの売れ行きが好調なことを分析している。そこでは、元一橋大学教授の野口悠紀雄氏が”いま、人々は廃墟を見て、「私の栄光の時代は過去のものになった。しかし、この建物の栄光の時代も過去のものだ」という<癒し>を感じている”としている。そして、”若者が廃墟に夢中になっているのは、彼らが未来に対して夢を描けないからである。その意味では、決して健全な現象ではない”とも言っている。

 ピクトリアリズムと”廃墟”、一見すると美と醜ほどの正反対のものに感じられるが、今の時代、その裏側ではこれら2つは実は極めて近いのかもしれない。どちらも、現実の世界に疲れ、将来を描ききれない中での一種の現実からの逃避。その逃避先がデジカメなどで簡単にこしらえた”美しく芸術的”な世界か、”過去の栄光”に浸り癒されようとする世界か、の違いでしかない。そうだとすれば、一見、美しく、華やかに見える現代のピクトリアリズム写真も、その実体は、大正期のそれとは似て非なるもので、まさにデジカメで作った画像のようにキー1つで消滅するほど儚く、荒涼としたものかもしれない。



(08/23/02)




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