エルンスト・ライツ社前史





 現在のライカ社の前身はエルンスト・ライツ (Ernst Leitz) 社であり、ちょっと前までのライカ製品には、"ERNST LEITZ WETZLAR GERMANY"とエングレーブがしてあるのは、よく知られているところである。エルンスト・ライツとは人名であり、ライツ社のオーナーであったわけであるが、ライツが135フィルムを使ういわゆるライカ判のカメラを初めて世に出したのは、1913年にライツ社のオスカー・バルナックがウル・ライカを製作した頃からである。その後、第一次世界大戦後の1923年に、バルナックがヌル・ライカを試作し、2年後にはライカIが市場に出されたわけである。("Leitz Anastigmat"50ミリレンズをカメラに固着したヌル・ライカは、先頃、ライカ社から復刻されて現在販売中であることは周知のとおりである。)

 ライカIの発売後、ライツ社のエルマー50ミリを始めとするレンズの優秀性が評判を呼び、ライカカメラは世界に売れ始めた。そして、135フィルムのフォーマットは、初期の頃には、ハーフ判や24ミリ×32ミリのニホン判などもあったものの、現在では24ミリ×36ミリのライカ判に統一されてしまったと言ってもいい状況となっている。この時代のスクリュー・マウントを持ったライカカメラは、日本ではオスカー・バルナックの名前をとって、バルナック・ライカなどと呼ばれることもある。今、ライカと言えば真っ先に思い浮かべられるであろうM型ライカが発売されるのは、ライカIが発売されたときから約30年後の1954年のライカM3の登場まで待たなければならない。

 さて、このようにライツ社がライカ判のカメラを発売し始めたのは、1925年からのことであり、オスカー・バルナックがウル・ライカを製作した頃からのライカ社の歴史は、結構、いろいろなところで紹介されている。

 しかし、実はそれ以前から、ライツ社は顕微鏡を製造していたという話をどこかで聞いたことがあった。顕微鏡のレンズにズマール (Summar)という名前が使われていたということもだ。このあたりの話は、あまり文献などでも見ることがなく、また、なにぶん今となっては2世紀も前の時代のことであるため、よく分からなかったのだが、LHSAの機関誌 "Viewfinder" の最近の号(Vol. 34, No. 3)にこのあたりの話が少し出ていたため、ここで見てみようというのが、今回の趣旨である。

 これによれば、ライツ社の前身は、カール・ケルナー (Carl Kellner) というドイツ人が1849年に興したOptical Instituteという顕微鏡会社であったようだ。ケルナーは、発明家であり、パンクロマティック(全色性)の対物レンズのパイオニアであった。彼は、当初、これを望遠鏡に用いたが、後に顕微鏡に応用することを始めた。ケルナーは1826年に生まれ、1855年には亡くなっているが、ガウス (Karl Friederich Gauss;レンズのガウス型という呼び方の由来である数学者。) から認められ、オランダの作家、ハーティング (Harting) にも"ケルナーは、ドイツで驚嘆すべき顕微鏡を作ったことで著名である"と言わしめており、短命であったが、かなり活躍したらしい。

 ケルナーは、亡くなる前、1849年にドイツのウェツラー (Wetzlar) に光学研究所 (Optical Institute) という会社を設立し、翌年にはスイスのジュネーブで最初の顕微鏡を販売したらしい。これが、今のライカ社の大元となるわけであろう。このケルナーの光学研究所には、2人の代表的な人物が働いていたようだ。1人は、ケルナーの信頼すべき従兄弟のルイス・エンゲルバート (Louis Engelbert) で、彼はケルナーの死後、光学研究所の経営を引き継いだ。もう1人は、フリードリッヒ・ベルテレ (Friederich Belthle;もちろん、ツァイスのベルテレとは別人。) で、ケルナーの昔からの機械の面でのアシスタントだった。

 1856年、ベルテレがケルナーの未亡人と結婚した後、エンゲルバートは研究所を去っため、ベルテレは、会社の経営者兼製造面での最高権威となった。このときから、会社で生産された顕微鏡には、"C. KELLNER'S NACH. FR. BELTHLE IN WETZLAR" とエングレーブが彫られるようになった。"NACH. FR."とは、ドイツ語の"NACHFOLGER"(後継者)という言葉の略である。ベルテレは、真面目で仕事熱心な機械技術者であり、製品の品質の向上に力を注いだが、経営者としてはあまり優秀ではなく、また、健康も害していったため、会社の経営は傾き始めた。

 こうした中で、1865年には、エルンスト・ライツ (Ernst Leitz) という名の若い男が会社に入ったわけである。彼はよい教育を受けており、また、前年には有名な電気時計のメーカーでトレーニングを受けたばかりであった。ライツは、時計メーカーで、精密時計の高性能機械部品のバッチ生産方式を学んでおり、会社の生産にもこの方式を応用することを始め、生産コストは急激に下がり始めた。

 こうして、ライツは徐々に工場での生産方法を変え始めたようだ。1865年にライツは会社のパートナーとなり、3年後にはベルテレの死亡によって唯一のオーナーとなった。エルンスト・ライツの光学研究所 (Optical Institute of Ernst Leitz) は、顕微鏡のバッチ生産方式を大々的に始め、工場の生産性は急速に向上し、これは当時の高品質な顕微鏡への旺盛な需要にマッチしたものだった。このあたりで、顕微鏡に彫られたエングレーブは、"E. LEITZ IN WETZLAR"へと変わっていった。

 1880年の年間の顕微鏡の売上台数は500台を超え、新しい作業場が設置された。3年後には、より大きな工場も建設され、ライツ社は、その後のライカ判カメラの登場、高性能なレンズの製造への道程を歩み始めたわけである。

 これが、"Viewfinder"誌に掲載された記事の概要であるが、1868年頃から、"LEITZ WETZLAR"という刻印の原型が製品にエングレーブされ始めたらしいということが分かる。ただ、この頃の会社名は、依然としてOptical Insitute of Ernst Leitzであったようなので、Ernst Leitzのみになっていったのがいつ頃かは判然としない。ヌル・ライカの頃には既にErnst Leitzになっているから、おそらく19世紀から20世紀へと変わる、世紀の変わり目の頃に社名もこのようにしたのだろうとしか想像できない。

 まぁ、結局、こんなことは、どうでもいいことかもしれないが、たまには歴史散策も悪くはないのでは、と思った次第である。

(11/02/01)



BACK


inserted by FC2 system